1991年10月21日 福井県福井市生まれ
2021年現在 奈良県桜井市在住
アフリカ製品輸入会社所属 展示会で日本各地に現れます。
非常勤講師として学校教育活動に参加予定
ご縁いただいた自然に近い古民家を拠点として
なかまが学びあえる場所 大切な人たちがホッと帰ってこれるような場所
るをつくることを目標としている。
≪自己紹介 About me≫
小学生から11年間、朝から晩までバレーボール漬けで育つ。
体育以外に興味がなく、スポーツ学科のある大学に入るが、部活を退部。
退部後は、3度の日本縦断ヒッチハイク、
東南アジアへの一人旅、
ぶどう農園に入り浸るなど、
スポーツとは関係のないところへ興味を示す。
インドネシア流れ着いた島で青空バレー
骨折りながら日本ヒッチハイク
その中で旅した東アフリカ・タンザニアで、
旅費をほとんど盗られ、殴る首絞め等の強盗被害に遭う。
パン一斤で食いつなぎ、一時誰とも目を合わさず、人間不信になる。
事情を知ったイスラム教徒のおじさんに施されたディナー、
現地の子供たちの純粋な笑顔、
離島で出会ったラスタ漁師、
同じくスリ被害に遭ったルーマニア人Oviのことばに救われ、
現地の教育普及を志す。
アフリカの人達の、自然に近い生き方に憧れを抱き、帰国。
さて教育大に入学したものの、アフリカ渡航前には教員志望は全くなかったため、
教員免許を取らず卒業のカリキュラムだった。
卒業後1年、会社勤務をし、その後教員免許状取得のため大学へ再入学する。
アフリカで教員をするにも、教育現場での実務経験が必要だと感じ、
愛すべき奈良県にて教員採用試験を受け、運よく合格。
3年間、中学校教員時代を過ごす。
教科は保健体育。陸上部顧問。
校務担当は地域コミュニティ部。
1~3年の担任をさせて頂いた。
2019年
愛する47名の生徒達と一緒に、学校を卒業。(辞職)
その後再アフリカ。
ケニアでの寄宿舎制小学校や、タンザニア・マサイ村での生活を通し、アフリカ教育への考えが変わった。
学校の先生は、職幅の少ないアフリカ女性にも人気の職業であり、自分が現場に入れば、その分ひとつ席をとることになること。
小学校の普及率が高くなった(8割強)
一方で、経済的理由で、中学へ進学ができない子供が大半であること。
ケニアでは小学校と高校卒業時に受ける国家試験の点数が、一生ついて回る学歴社会になっていて、美術やスポーツなどの技術教科は重要視されていないこと。
ムチを打たれながら必死に勉強した教育の先の雇用数が、圧倒的に少ないこと。
そして自分が日本人であることに気付いたこと。
しばらくアフリカに住むんやと覚悟していたが、恋しく思う故郷。
何か感動を覚えたとき、ああ日本の生徒達にも伝えたいなと浮かんでくる顔。
帰国後、日本から支援を行う方法はなかろうかと、
2021年現在、日本のアフリカ製品
輸入の会社で勤務中。
フェアトレード製品の販売を通して、親世代の雇用安定を。
それが子どもたちの教育につながればという考えで間接的に関わっている。
日本の学校現場では、生徒や保護者の方、先生方、様々な人との出会いがあった。
教科、行事、部活動、日々の出来事すべてが、子どもたちの成長の糧になることを知った。
スポーツには、主教科と呼ばれる科目とは違う学びや可能性があることを、日本でもアフリカでも、思い知らされた。
自分が子どもの頃とは違う状況で生きる自国の子どもたちへ、何ができるのか。
今までの経験は何の為にあったのか。
これからは民間の立場から、何らかの形で、日本の子どもたちへの学びのサポートを行っていきたい。
学校現場でできないことを、したい。
求められることを、したい。
マサイ族のディクソンから言われた言葉
「どちらのことも知っている君の立場なら、それぞれをつなぐことができる」
それが自分の役目なのかもしれないと感じる。
≪経歴 Personal History≫
2014 大阪教育大学 教育学部卒業
(株)サイクルベースあさひ入社(2015年退社)
2015 河内ぶどう屋バイト
同大学へ再入学 教員免許取得 教員採用試験合格
2017 奈良県中学校保健体育教諭 勤務(2019年退職)
2019 東アフリカ1か月渡航 ケニア寄宿舎小学校・タンザニアマサイ村滞在
アフリカ製品輸入元(株)バラカ入社
2020 個人活動として アフリカ交流活動を開始
奈良県地域施設などでケニア小学校とオンライン交流を実施している
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